にん!(伊東四朗さんの声で)
みなさん、こんにちは!!!!!
ようやく、ようやく、ようやく、
マーマーマガジン最新号となります13号を
月曜日に校了いたしました!!!!!!!!
きゃいーん!(使い方合ってる?)
いま、印刷所で印刷のかたがいっしょうけんめい
刷ってくださっていまして、
この流れでいきますと、7月14日(木)に
全国のフレームワーク、ほか一部の書店にて
発売いたします!
どうぞ、たのしみにしていてくださいね。
リニューアルならぬ
リニューアル準備号です。
どんだけ慎重なんだ、って話もありますが、
でも、12号校了後にあの地震があり、
正直、コンテンツを考えて記事をつくるのが、とても難しかったです。
なにくわぬ顔でいままでどおりやる、
というのもひとつの選択肢とは思いますが、
でもわたしは、
なにくわぬ顔もできなくなったし
じゃあ、「こうだ!」というドヤ顔(使い方あってる?)もできず、
完全に困り切ったままで、
そのままつくってしまいました(こんな本あっていいのか)。
困り切ったままつくった本というのを
共有していただけるのかどうかわかりませんが、
しかし、あたらしい時代がほんとうにやってきていて、
わたし自身は、もう試行錯誤している、
その姿を見せながらつくる、ということが今回は精一杯でした。
どうかご容赦ください。
見た目にはそんなに変わってないよ
という声があるかもしれませんが、
つくり手としては、なんというか、
もうすっかり変わってしまった2011夏、なんです。
どうつくりてとして、
表現するかたちがかわったかは
興味深い話なので、またどこかで書きたいとは思いますが、
なにせ、前と変わらずに雑誌のような読み物をつくるということは
もうわたし自身はムリ、です。
そして、いろいろな表現も
少しずつこれから(自分も含めて)変わっていくのかな
と思っています。
****
さて!
そういう流れ(発売の流れ)で!
来週はイベント満載!
◎7月13日20時より
ユーストリーム放送(公開生録画@渋谷)!!!!!
ゲスト*日本屈指のアーユルヴェーダ医師、蓮村誠先生(オージャスの話をするよ!)、ミュージシャンでモデルの忍田彩さん(エコ素材や冷えとりについて話すよ!)です!
豪華だね!
◎7月14日17−19時
サイン会(@青山ブックセンター本店)!!!!!!
マーマーマガジン13号か、オージャスのひみつを買ってくださったかたに、
わしがサインをするという、なんだかとんでもない会が2時間行われます。
よかったらあそびにいらしてくださいね!
あと、その週は、わたし、バンドをやっていまして
とうとう、本格的なライブがあるのですが、
音楽関係の告知は、また別でしていこうと思っていまして、
もし、音楽が好きでとても興味があるという方がいてくださるようならば
自力で(冷たい)
探し出してくださいますでしょうか。
ごめんなさい、ここで告知をする!といっていたので、
いつか書かなくてはとみにつまされていたのですが、
今後、そのようにしていこうと思います。
年末、忘年会でやった、女性3人のバンドです。ふふ。
(you tubeのほうはまた別のバンドで流浪堂バンドです!)
*****
さて、先週今週もいろんなことがありました!
わたしは、2000年初頭あたりから、中学生や高校生のための
雑誌づくりのワークショップというのを行っていまして、(現在お休み中)
そのなかから生まれたanmitsuという高校生がつくるフリーぺーパーの
お手伝いをさせていただいていて、そのanmitsuは今も続いてて、
ほんとうに、すばらしい媒体なのですが!
その卒業生の、海野なおちゃんが
マーマーマガジンにあそびにきてくれました!
じゃん!
◎anmitsu
なおちゃんは、当時、編集長で
ほんとうにがんばって、anmitsuをつくっていて、
いろんな思い出がありますねー。
(ブラジルにいるのぎお! 見てる!?/すみません、突然固有名詞で!)
このanmitsuというのは、
もともと、チルドレンズエクスプレスという子どもがつくる通信社を
モデルにしてつくった編集部で、
子どもの視点で世の中を見るというので、
ほんとうに、これはずいぶん、アナーキーなとりくみで、
わたしも燃えていたのですが、
昨今、某ミュージシャンのブログでもりあがっている
女性編集者が狂ってるかもしれないぞなもし、という内容の
事柄に関しても、
anmitsuの活動を鑑みるに、
彼女たちは、一般的には、「高校生として編集する」ということで
プロの編集者ではなかったわけですが、しかし(一文が長いね、ご容赦ください)
ものすごいミスみたいなものは不思議となくて、
もちろん、そこには高校生だからといって大人がおおめにみてくれるとか、
大変になるまえに大人が助けてくれるとかいう類のことが皆無というわけではなかったのですが、しかし、
基本、高校生だけでぶじに運営できてきたという点はやっぱり
anmitsuッ子たちが、
本当に、anmitsuをつくりたいからつくっていた、
ということにほかならないのではないかと思うのです。
(ぜいっぜいっ)
つまりは、編集者というのは、もちろんプロとして研鑽を積むとか、
そういう類のものも重要な業種のひとつではあるのですが、
しかしanmitsuの子たちが
高校生活や部活や受験勉強や家事手伝いや恋愛や
そういうものもわしわしとやりつつも
anmitsuを出していた、しかも大きな事故もなく
(たいへんなことはたくさんあったけれども)
編集ということをまっとうしていた、まっとうできていた、
というのは、根本的に、
◎自分たちが表現したいものを表現して、それをたくさんのひとに読んでもらいたい
ということが主軸にどすっと
あったからなのではないかと思うのです。
つまり人というのは、
(動機に自由あれ、なんてわたしも思ってはいますがしかし)
その主軸が、しっかりと
その「やる対象のもっている性質」と合致しているとき、
「成就」ということが起こるのかなとか。
たとえばです。
◎めちゃ金もうけしたいぞなもし!(鼻息)
という人が、
お金もうけにぴったりのビジネスをやっているとき
ものすごい「成就」するみたいな、感じというか。
(うーん、あまりいい例じゃないな)
えっとえっと、
先日、内田樹さんのメディア論を読んで
影響を受けている点もあるかもしれないですが(というか共感した
部分で話しているのだと思うけれども)
やはり、
◎読み物
というのは、なんというか、
どこか無償のものだよね、みたいな面があって
なんか、どこかで、
お金儲けとは別の部分で動く衝動みたいなものが
一部にでもないと、
なんかおかしなことになるのかなって思うのです。
というか、読み物って、そういう類、そういう性質のものというか。
なんでもそうかな。
でも「読み物」はとくに、そうして守られるにしかるべきもののひとつというか。
だけれども
◎売れなくてはならない
という命題のもと、動いていくと
どこか、なにかがくるっていく、というかね。
システムが人をくるわせていくというか。
なんか、波動が合わないというのかな。
****
あとそれよりももっと大事なのが
最初に書こうとしていたことですが、
◎みんなにたのしまれる読み物をつくりたいから編集者になる
というひとと
◎(なんだかよくわかんないけど)編集者になりたいんぞなもし
というひとと
編集者には2種類いて、
どっちの動機も自由なのですが、
ひょっとすると
後者の動機のひとには、生きづらい時代になったのかもしれませんし、
もしかして、そのような動機ではじめて、
大きなターニングポイントがきたときには、
◎はたしてわし、何がやりたかったんだべ?
と問うてみるよい機会がきたのだ、
ということにほかならないのかなと思ったりします。
***
わたしが、まだ駆け出しの編集者だったころ、
はじめてはいった雑誌の編集長に、わたしが電話していると
「服部さん、なんか、自分がさも
『編集者ですよ!』というような、かっこつけたしゃべりかた
おやめなさい!」
と怒られたことがあって、心底はずかしかったのですが、
(自分ではぜんぜんきづいてなかった/いっぱしの編集者きどりだったんだね)
若かったし、若いころというのは、
◎本をつくろう
と思っていても、どこか
◎編集者ってこんな感じ
というのを演じてしまう自分があるというか、
もちろん、そうして「まねて」、学んでいく部分もあり、
それも大事なことなのかもしれませんが、
あそこでわたしも上司に怒られて本当によかったです。
****
とにかく
◎おもしろい読み物をつくってみんなをよろこばせたいから編集者になるんぞなもしタイプ
と
◎編集者ってこんな感じ(にかっこいい、なんだかそういう職業っぽくね)という感覚で編集者になるんぞなもしタイプ
(長いね)
というのは、実際、きっとどの編集者にも混在している部分があって、
最初の動機というのは、本当に自由でいいのですが、
なにせ、
現代というのは、実は、
◎おもしろい読み物つくってみんなのこころを打ち振るわせたいのじゃ
という人に好意的というか、
そこに、お金も集まりつつあるというか、
実はそういう波がきているというか、
なんかそんなきがするのです。
3年前くらいまでは、
本なんかぜんぜん読まなくて
超編集者ぽくね、って感じをめっちゃうまくできる人(まあ、それも才能だよね)
が編集ってこんな感じじゃね、
雑誌ってこうやってつくんじゃね、
簡単じゃね、ちょろくね、部数増やすのなんて簡単じゃね、
広告とれっし、
こういうところつついときゃ売れるんじゃね、
とかいいつつ(酷い表現になっていますが)
つくって、けっこう本って売れてた気がする。
なんか。
(「やー、服部ちゃーん、そんな甘くないっしょー!」と、
つま楊枝をしーしーしながら
あぶらぎった
おじさまがたに怒られてしまいそうですが、
しかし、やっぱり、
行為のどこかに、そういう面はなかったでしょうか?
自戒のきもちもこめて、です。
「こんな感じ」でつくっちゃってるおいらって本当に存在しない?
存在しないっていいきれる?
「なぜわれわれは雑誌をつくるのか、本をつくるのか」
ということを本気で問いながら、本をつくのに難しい時代というか、
「ねえ、じゃあ、おじさま? おじさまは
なんで本つくってるかいえる? ね、いえる?」
ってレースのブラウス着て問い直したい気持ちがあります)
でももうなんかね、そういうふうにできなくなったきがする。
決定的に。
それが、なんか、3月の地震でさらにくっきりしたきがするのです。
****
この両者の差異がどうでるかというのは、
まあ、もう、カルマとかポノ的にいえば記憶が出たとか、
なにせいろいろな、ことがいえるのですが、
冷えてるとか、ね、
でも、なんというか、わたしは
今回いろいろつらつら編集者という仕事を通して
仕事全般について考えるに、
生育歴とも関係があって、
親か親のような存在に、(親でなくてもいいとわたしは思っています)
どのように接してもらったか、育てられたか
ととても関係しているようなきがします。
めちゃ簡単にいえば、
◎条件づけの愛情
だった場合、
やはり、
外面というか、「かたち」をどうしても重視型になってしまって、
いつもほめられて、愛情を得ようという方向になってしまう。
つまり「編集者になろうとして編集者になってしまう」傾向が強くなるというか。
会社名で仕事を選んでしまったりね。
肩書き=自分みたいになってしまったり。
一方、どんなあんたでも、いるだけでおれたちしあわせなんだぜ
というメッセージをうけたり、経験をしていると、
「かたち」は重要でなくなり「なかみ」に没頭できるようになるというか!
「えー、みれい。でもわたし、
そういう無償って類の愛情をうけてこなかった!!!! ぶえーん
どうしたらいいのさ」という方については、
何かで書いたような記憶があるのですが、
文学、物語、詩、音楽
そういったものから、無償の愛ってどんなものがあるか
もう体感するしかない。
大人になってからでも体感することはできるもの。
そうしてじょじょに
どんな自分だっていいんだってことになってきたら
編集者になろうとして
編集者になるのではなくて、
わたしは、読み物でみんなをたのしませてみたいんだーとか、
そういう動機が生まれてくるのかなあ、とか。
うむ。
深読み。
そして長いね。
でも、すごく通じてるきがするのです。
*****
無償の愛を受けていないと感じている人が
どのように無償の愛を感じ取れるようになるかというのは
非常に深い命題のように思うけど、
あれですね、
そう感じている人は
なるべく
◎条件づけの愛
を送ってくる人とかかわらないことですね。
なるべく。
だって、そういう愛を送ってくる人(しかも、それ、愛じゃないですから)
も無償の愛を感じたことのない人なわけです。
あ!
冷えとりもいいですね。
冷えをとっていくと
本当に、「自然」ということを体感できるようになって、
その「自然」というのは
いつもいつも、自分に無償の愛をおくってくれている存在だから。
ものすごく大きいですよ!!!
あとはあるものを数えるようにする、とかでしょうか。
****
なにせ、失敗などは起きたらラッキーで、
(そのときはみんなが大変ですが)
でも、起こるべくして起きたというか、
決して引きずらず
◎わたしって何したいんだっけ?
て考えるよい機会がきた、とだけ思えばいいと思います。
本心や
自分の本当の姿を見るのが怖い
という感覚って
かなり多くのひとにあって、
けっこうそういうものって
わからなくても、生きていけるものなんですが、
もとい、
生きていけるものだったのですが、
どうも、そうはいかなくなってきたようなのです。
特に、3月以降、です。
もっといったら、この3年くらいの間にです。
(そのためにマーマーをつくっているというようなところも
おおきくあるのであります)
出たら、それは「おしらせ」
おしらせの声を聴いて、
仕事を休むもよし、
やめるもよし、
旅にいくもよし、
じっとしてみるのもよし、
なにせ、たちどまってみたりいのかなって思います。
たちどまらなくても
◎自分って何しに生まれてきたんだっけ
とか
◎自分って何してるときがしあわせだっけ
って、頭でなくて、からだごと考えてみるといいと思います。
それを本気でどこかのタイミングでしないと
つらくなっていくのは
自分のようなきがします。
どんな職業、どんな会社、どんな学校
どんな家、どんなブランドの服を着ている、
そういうラベルは、もうどうだっていいのです。
本気でどうだってよくて、
それよりも
自分がしあわせかどうか、なんだと思う。
どういう態度、アティテュードなのってことだと思う。
そういうことを
本気で届けるために
13号をつくったつもりです。
いっしょうけんめいつくりました。
ほかにも書きたいこと満載ですが、
今日はこんなところで!
チャオ!
****
◎おまけ
パエトーン、読みましたよー!
みんな、ありがとう!
自主マーについて、フェイスブックでわたしが書いたことの追記は
近いうちにまた書こうって思っています。
とても大事なことだからね。
でもまあ簡単にいうと、
自覚していないということを自覚していたい、という旨のことです。
無知の知、というかね。
(何かが起こって、それに対してわたしが反応しているというような
吝嗇なことでは決してありません。そういうときには
直接わたしはその人に、いいます)
昔、横浜で、ワルい友だちのしんちゃんが、
イタリア山公園で、夜景をみながら、
「おれたちだって、オウム真理教に入っていたかもしれないよな」
といったのですが、
そんなしんちゃんは、オウム真理教にはやっぱり入らなかったのではないか。
「わたしはっ、絶対にっ、オウム真理教には入信しません!」
といっているひとが、実は、入信したりして、というような類のことです。
伝わるかな?
自覚的ということは、
やっぱり愛なのだと思う。
厳しいかな。
でも、本気でやさしくしたり、愛情を発揮するのって、
けっこうタフなことなんだと思う。
強くないとやさしくできないですものね。
もしくは、ある種の覚悟がいるというか。
あたらしい人を受け入れていくって
ほんとうに、愛、ってことだと、わたしは思っているのです。
じゃあねー!
ユーストで会いましょうね☆
チャオ酢!
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